『ALOHA PIKO』は、アロハの素を皆さんにお届けします。
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「POMAIKA'I」
新井朋子&アロヒナニ著


「聖なる光 第1弾 光臨」
美内すずえ監修
写真家 奥聖 

アロヒナニ 文章担当
 

旅 エッセイ 海外編


 
トルコ (以前、雑誌「スターピープル」に書いたものです)
トルコ紀行〜不思議な魅力と出会う場所〜

かすかに男の人の歌声が聞こえてくる。意識がだんだんとはっきりしてくると、それが祈りの声だと気づく。そうだ、昨日の夜、寝る前にも聞いたっけ。トルコでの初めての朝はこうやって始まった。

トルコらしさとは?
 かつてはオスマントルコ帝国としてアジア、ヨーロッパ、北アフリカ大陸を制していたトルコは、さまざまな歴史をたどり、1923年ムスタファ・ケマル・パシャによりトルコ共和国となった。初代大統領となり、のちにアタチュルク(トルコの父)と呼ばれたケマルは、政教分離など近代化政策を成し遂げた。アタチュルクが日本の明治維新を称賛し、「日本に学べ」をスローガンにしたという話は有名だ。また、トルコの敵であったロシアを日露戦争で日本が破ったなど、トルコが親日国となるゆえんの話しがいくつかある。国土の97%がアジア大陸であるのもその要因の1つかもしれない。
  日本の約2倍の国土を持つトルコには、トルコ人のほかにもギリシア人、アラブ人、クルド人、ペルシャ人、アルメニア人などの民族が住み、実に色々なタイプの顔が存在する。いわゆるトルコ人らしい顔というのがどういう顔なのか、いまだによくわからない。民族舞踊を観に行ったが、かなりロシア的な要素が強い音楽や衣装だったのは驚きだった。ベリーダンスショーもあったが、もともとは中近東など砂漠の民の踊りであったとわいれており、トルコ特有の踊りではない。ハワイのショーでタヒチアンダンスを観るようなものかもしれない。
 
トルコでのイスラム教
 国民の99%はイスラム教だが、政教分離されているので、それほど厳しくはない。今回の旅でお世話になった現地ガイドのダウト氏は、お酒も飲むしお祈りもしない。イスタンブールなどの大都市では、スカーフを頭に巻く女性は少なく、西洋的なファッションの若者も多くいる。ただし、モスクなどの宗教施設に入るときは、観光客であっても女性はスカーフをかぶらなくてはいけないし、肌を露出している場合はスカーフなどで隠さなくてはいけない。例外もあり、イスタンブールの有名なブルーモスク(スルタンアフメット・ジャミイ)では、スカーフを頭にかぶることなしでオーケーだったが。
  政教分離とは言っても、モスクのミナレット(尖塔)に備えてあるスピーカーから祈りの声が1日に5回流れるし、モスクの前では手足や顔を洗って身を清める熱心な信者達の姿を多く見かける。1日の最初の祈りは、夏の場合は朝の4時45分頃。大音量で流れてくるので、イヤでも目が覚めてしまう。でも、旅も終りに近づくと、気づかずに寝ているから慣れとは恐ろしい。
  イスタンブールは世界で唯一アジアとヨーロッパにまたがる街であり、トルコ第1の都市である。(第2の都市が首都のアンカラ)イスタンブールの旧市街にあるイェニ・ジャミイという小さなモスクに立ち寄ったときのこと。入口でスカーフを借りて頭にかぶり中に入ると、これから割礼式であろう男の子と家族がいた。割礼式の男の子は王子様のような格好をするのでひとめでわかる。年齢を聞くと、7歳という答え。ニコニコしていたから、式の前だったのだろう。(式の後は泣き叫ぶらしい)イスラム教では、病気にならないように、幸せになりますように、という願いがこめられた割礼式。このような習慣はトルコにもしっかりと息づいている。
  では、男女交際はどうなのか? モスクの中では、祈りの場は男女別だし、街中は男の人ばかりだが、ダウト氏の話しによると結婚自体は案外自由なようだ。イスラムでは、4人まで妻を持つことができるが、トルコでは1夫1妻がほとんどだという。農業が盛んなトルコでの働き手の75%が女性。男性は何をしているかというと、お茶屋さんでチャイを飲んで遊んでいる。これは社会問題だとダウト氏が嘆いていた。まだまだ男尊女卑のトルコ、その上働くのも女性とあっては、女性はたまったもんではない。
  余談ではあるが、私がエジプトへ行ったときのこと。混雑するスーク(市場)を歩いていると、あちらこちらから手が伸びてきてお尻を触られる。振り向いても誰が触っているのかわからない。買物をするときも、男性店員にしつこくされることがあった。イスラムの厳しい戒律のもとで生活する彼らは、結婚するまで異性に触れることも、デートすることもできない。外国人なら触っても罪にならないと思っているのか、どさくさにまぎれて触ってくる。しかも、彼らは年齢さえ問わない。50歳を越える知人でさえも、エジプトで地下鉄に乗ったときにお尻を触られたという。おそるべし。
  トルコではそういうこともなく、物売りも案外しつこくない。日本語を勉強する人も多く、日本人にとっては居心地のいい国だと感じる。
 
神秘宗教都市コンヤ
 11世紀から13世紀にかけて、セルジュク朝の首都だったコンヤ。ここは最も宗教色が強い町で、多くの女性はスカーフをかぶり、男性はあごひげを生やしている。ただし、3年前に学校や会社にはスカーフなしで入ることが義務付けられ、学生と会社員の女性はスカーフをかぶっていない。
  コンヤは、イスラム神秘主義「メブラーナ教団」の発祥の地でもある。メブラーナとは「我が師」という意味で、13世紀にメブラーナ・ジェラレッディン・ルーミーによって創立された。この教団はセマと呼ばれる旋回舞踊が有名である。踊り手が身につける衣装もユニークだ。山高帽は墓石、白い服は墓を表す。反時計回りに旋回しながら神との一体化を目指す。上に向けた右手から神のエネルギーをもらい、下に向けた左手でそれを大地に返す、または皆に分け与える。白いスカートのすそには鉛がついていて、それによって真直ぐに回れるという。12歳から修行したと言われているが、現在ホテルなどのショーで踊っているのは、宗教学を勉強している大学生達だそうだ。倒れちゃう人はいないんですか?と訊ねると、今まで見たことがないとダウト氏。今回の旅ではこの旋回舞踊を見る機会がなかったのがとても残念だった。
  1925年、アタチュルクによって宗教活動は停止され、教団は解散。旋回舞踊は、1970年代に再開されるまでは禁じられていた。メブラーナ教団の霊廟は博物館となっており、コーランの展示やメブラーナ始め名僧たちの石棺が並んでいる。
  トルコでは、死後は遺体をきれいに洗い、コットンで包んで地下2メートルの所に埋める。石棺は単なる飾りでしかない。ダウト氏が教えてくれたのだが、トルコではお墓もお葬式も無料。更に、僧侶は公務員だというから面白い。
  コンヤでもうひとつ有名なのがカラタイ神学校。1251年、高官ジェラレッディン・カラタイが創設した神学校で、現在はモザイクがきれいな博物館となっている。興味深いのは、イスラムでは偶像崇拝が禁じられているというのに、ここには偶像があること。それは何故かというと、教えが普及する前に勘違いをしてしまったという話しだった。
 
トルコでマリアと出会う
 トルコ第3の都市イズミールから車で20分ほどのところにあるエフェス。世界七不思議のひとつとなっているアルテミス神殿があり、古代遺跡で有名な町である。そこには、キリスト教信者が訪れる聖地がある。聖母マリアの家。聖母マリアは、イエスの死後、イエスの12使徒の1人聖ヨハネとともにこの地に伝道で訪れ、余生を送ったと言われている。近くには、聖ヨハネの墓の上に建てられた聖ヨハネ教会もある。聖母マリアが暮らした家は、ドイツの修道女カトリーヌ・エメリッヒが、一度も訪れたことがないというのに家の場所などを記録に残し、これをもとにイズミールの司教がこの場所を突き止めたという。現在、マリアの家の跡には小さな教会が建っており、たくさんの信者たちが訪れている。 
  山の上に立つその小さな教会の中に入ると、そこはとても温かいエネルギーに包まれていた。じんわりと優しさが伝わってくる、子宮の中の温かさ、そんな感じだった。私の横にいた男性は、マリア像を見つめ、何かをつぶやきながらとても熱心に祈っていた。その真剣さが伝わってきて、何故だか涙が浮かびそうになった。真剣な祈りというのは、人の感情を揺さぶる何かがある。
  教会の外には、涌き水が出ている場所があり、蛇口が3つ並んでいる。左はお金、中央は健康、右は愛の泉だということ。私もたくさんの信者達とともに列に並び、祝福の泉をいただいた。教会の中にあった小さな日本語のカードに書いてあった祈りの言葉をここで紹介したい。
「神の御母聖マリア、栄光ある乙女よ、試練の時にあなたの御保護の下にのがれ祈る私たちの願いをしりぞけず、全ての危険より私たちをお救い下さい」
 
ふしぎトルコ
 トルコってどういう国? そう聞かれるとなかなか答えられない。どんなところが良くて、どんなところが良くないのか? ただひとつ困ったこと、それはお金。インフレも激しいし、何しろケタが多い。日本の1円が約1万4000リラ。同行した私の友人が日本円で2万円程度のものを買った時に、「3億です」なんて言われて爆笑。日本円で20万ほどのじゅうたんを買っていた日本人夫婦が、「27億です」なんて言われていた。その夫婦は、記念にこのレシートを永久保存します、と喜んでいた。だがトルコ人店員は、笑いごとではなくこれはトルコの恥です、と困惑気味の顔をしていた。笑ったりしてごめんなさい。
  とにかく、何かを支払うときにケタを何回も確認しなければいけない。おつりをもらったときも、確認に時間がかかる。空港内のデューティフリーでは価格表示がユーロになっているので、今後はユーロに変わっていく可能性もあるのかもしれないが。
  アジアでもないし、ヨーロッパでもない。イスラム教だけど、戒律は厳しくない。多くの人種と混血を重ねてきたので、色々な顔つきがある。世界3大料理の1つとされているが、味付けは何か物足りない。いろいろな要素が入り混じってよく説明ができないのだが、でもなんだか魅力的。もう一度足を運んでしまいそうな、そんな予感。不思議な魅力にあふれたトルコ。みなさんも飛んでイスタンブール、してみませんか?

 
ネパール (以前、雑誌「スターピープル」に書いたものです)
カトマンドゥへ向かう飛行機が徐々に高度を下げていく。機内が急に賑やかになり、乗客が入れ替わり立ち替わり窓の外を眺めている。遠くに見えるのは雲のような白い連なり。
ヒマラヤ山脈の姿がそこにあった。あそこに登る人達がいるなんて信じられない。それ程、人間の世界とかけ離れて見えた。
ヒマラヤと子供たち
首都カトマンドゥから飛行機で約40分のポカラでは、雄大なヒマラヤ山脈を間近で見ることが出来る。ホテルの部屋のカーテンを開け、神々しい山々が目に飛び込んでくる朝の瞬間は、最高に贅沢なものだ。
ポカラで人気が高いのがサランコットの丘(標高1590m)のミニトレッキング。早朝にホテルを出発し、車でサランコットの丘の麓へ向かう。暗闇の中、懐中電灯の光をたよりに山道を登る。自分が吐く白い息と足元を照らす小さな灯りを見つめながら、静寂の中ただひたすら頂上を目指す。ときおり、野良犬たちが横を並んで歩いている。どうやら訪問者達が頂上で食べる朝食が目当てのようだ。
頂上にたどり着くと、アンナプルナ連峰(7000〜8000m)が私を出迎えてくれた。迫力あるその勇姿にしばし見とれていると、朝日が姿を現し始め、辺りが段々と明るくなってきた。大陽の光を浴びて神聖さを増した山々の鳥肌が立つほどの優美さは、とても言葉では言い表せない。この山も、この大地も人間が作ったものではない。私達は、こんなにも豊かなものを与えられていることに感謝し、大切にしなければいけないという思いがわき上がってきた。
野良犬たちとの朝食を終え、来るときには見えなかった風景を楽しみながら丘を下る。道にはたくさんの民家や商店が建ち並び、子供達は、「キャンディー、キャンディー」としきりにねだる。家の前に立っていた男性に、中を見せてくれないかと頼んでみると、快く応じてくれた。小さなリビングとキッチンがあり、他に部屋は1つだけ。リビングでは、少女が床に座り、熱心に勉強をしている。日本では捨ててしまうような小さなボロボロの紙切れの両面に、ビッシリと文字を書いている。
そのけなげな様子に胸を打たれながら歩を進めると、7〜8人の子供達が手を叩きながら民謡を歌っている。キャンディーが目当てだとわかってはいても、一生懸命歌っている様子を見たら、あげずにはいられなくなる。
ふと下を見ると、3歳くらいの少女が私の足にしがみつくような格好で、私を道の前方へ引っ張って行こうとしている。1軒の小さなお店の前に、ピンク色のサリーを着た若い女性が立っていて、私の足元にしがみついている少女を見ると、愛おしそうに微笑んだ。私は、母親のお店にお客さんを連れてきた親孝行な少女に、持っていたリンゴをプレゼントした。すると、その美しい母親は笑顔で頭を下げ、少女に、「サンキューと言いなさい」と声をかける。その愛らしい母と娘の光景が今でも記憶に残っている。
ネパールの子供達の笑顔は屈託がない。小さな子供が、もっと小さな子供を背中におぶり、鼻水を垂らしながら裸足で駆け回る。その姿は、経済的には貧しいかもしれないけれど心は豊かなのだ、と語っているように見えた。この豊かさこそ、経済大国と言われる日本が失ってしまった大切なものなのでは、と考えさせられる。
 

女神クマリ

ネパールでは、ヒンドゥー教と仏教が仲良く混在していて、町中には、さまざまな神様が祭られている。中でも興味深いのが、生き神クマリだ。カトマンドゥ市内のダルバール広場に、木彫り細工が美しい“クマリの館”があり、女神クマリの化身という美しい少女が住んでいる。係りの人に拝観料を渡すと、2階正面の窓から、クマリが無表情な顔を数秒だけ見せてくれる。クマリはカトマンドゥだけでなく、各町や村にもいるが、カトマンドゥのクマリがもっとも特別な存在で、国王さえもひざまづき、祝福のティカ(額の赤い印)を受ける。
クマリは、仏教徒の中から、星の配置、美しい容姿、良い家柄、など多数の条件の中から選び出される。血は不浄であるという考えから、体に傷跡などが一切ないことが選考条件にあげられ、初潮を迎えると引退し、次のクマリと交代する。カトマンドゥのクマリの場合、選ばれてからは親の元を離れ、クマリの館で神としての教育を受ける。毎年9月に行われるインドラ・ジャントラという大祭では、カトマンドゥのクマリを乗せた山車が町中を巡り、無病息災や願望成就を願う大勢の人々が集まる。
カトマンドゥの南にある古都パタンで、町を散策していた時、壁に“Living goddess” と書いてある家を発見した。各町村のクマリは、クマリが住んでいる実家がクマリの館となり、家族と生活を共にすることが出来る。パタンのクマリの家の中に入ると、クマリの父がとても嬉しそうに迎え入れてくれた。階段を3階まで上がって行き、クマリの部屋に足を踏み入れる。そこには、観光客から貰ったのか、他国の民族衣装を着た人形がいくつか並んでいた。
クマリが登場するまでの間、クマリの父は、娘の写真を自慢げに見せ、その中の1枚をプレゼントしてくれた。娘がクマリであることが嬉しくて仕方ないといった様子。すると、赤い衣装を身に付け、独特の化粧をほどこしたクマリが現れた。目の前に座ったクマリは、無表情ではあるものの、異国から来た訪問者への興味を完全には隠せないらしく、アイラインをひいた目を時折きょろきょろさせている。目のまわりに黒いアイラインを描くのは、病気をしないようにという意味があるという。クマリの手に少額のお布施を渡し、手を合わせ、祝福のティカを受ける。もうすぐクマリを引退することが予想されるほど体格の良いクマリを見て、この少女は引退後にはどのような生活を送るのだろう、と考える。
以前、元クマリを取材したドキュメント番組を見たことがある。カトマンドゥのクマリだった美しい少女が、普通の子供のように笑うようになるまで随分時間がかかった、と少女の母親が語っていた。神としてのふるまいしか知らなかったその少女は、妹よりも下の学年で勉強し、家事の手伝いも少しずつ覚えているという。幼い頃から重い冠をつけていたため、頭の一部からは髪の毛が生えてこない。インドラ・ジャンドラの大祭の日、少女は現クマリの姿を複雑な表情で見つめる。
クマリを引退した女性達は不幸になる、元クマリと結婚すると早死にする、などという噂があり、結婚したがらない男性もいると聞く。物心ついた頃に両親と引き離され、笑うことも遊ぶことも禁じられた少女達が、引退後は幸せであることを願わずにはいられない。
 
お寺訪問
ネパールには、いたるところに寺院がある。あるヒンドゥー教の寺院を訪れた時のこと。若い修行僧達が、嬉しそうにしきりに手招きをする。ヒンドゥー教の寺院は、ヒンドゥー教徒しか足を踏み入れることが出来ないと聞いていたので、びっくりして尋ねると、“日本人は仏教徒だから許可します”ということだった。寺院の中に入り、祝福のティカを受ける。寺院の周りの石畳には、ヤギや鶏などの生け贄の赤い血がこびりついている。
ネパールでは、牛は神聖なものとされ、殺すことを禁じられている。雄牛はシヴァ神の乗り物、雌牛はラクシュミーという女神の乗り物、そして水牛は悪魔。昔、神様と悪魔が戦った時、悪魔が逃げるために水牛に化身したため、神と女神は水牛を殺した。だから、水牛は殺してもいいという。人々の生活には、今でもこういった神話が息づいている。
ネパールは、ブッダが生まれた国ではあるが、現在では仏教徒よりもヒンドゥー教徒の方が圧倒的に多く、国王もヒンドゥー教徒。しかし、生き神クマリは仏教徒から選ばれるというから面白い。大らかな国民性なのだろうか(笑)。
数ある寺院の中から私の興味を引いたのは2つの仏教寺院。カトマンドゥにあるスワヤンブナート、そしてボダナートだ。昔、カトマンドゥは湖の底にあったと言われており、スワヤンブナートはその頃から丘の上に建っていたという伝説があるヒマラヤ最古の仏教寺院だ。
一方ボダナートは、チベット仏教徒の主要な巡礼地で、ネパール最大の仏塔がある。こちらは、“リトルブッダ”という映画にも登場している。どちらの寺院も、四方を向く側壁にブッダの目が描かれている。市内を散策している時、ふと丘を見上げると、スワヤンブナートのブッダアイがこちらを見据えている。何とも言えない安心感が漂う。ブッダはいつでも見守っていてくれるようだ。
ボダナートを訪れた時、丁度何かのお祭りをやっていて、数万本とも見えるろうそくが飾られ、夕刻だったこともあり大変に幻想的だった。ネパール最大のこの仏塔は、マンダラの構造になっている。台座は地、半円のドームは水、13層の尖った塔は火、その上に鎮座する傘は風、先端の小塔は空。宇宙を構成する5大エネルギーを現している。その他にも、色々な象徴があり、見た目以上に奥深い。
両寺院の台座側面には、マニ車(中に教文を書いた紙が入っている。1回まわすと1回お経を唱えたことになる)があり、これをまわしながら時計回りに歩き続ける。ボダナートでは、五体倒地をする人々の姿もあり、人々の真剣な祈りには目を奪われる。日本では、このような姿を見かけることはあまりないが、ここネパールでは、これが日常なのだ。
壮大なヒマラヤ山脈、無邪気な子供達、美しい女神クマリ、寺院での人々の祈り…、ネパールという国は、何度訪れても発見があると約束してくれる国だ。
 
 
カンボジア  (以前、雑誌「スターピープル」に書いたものです)
はるかなるアンコール 神々と出会う場所
カンボジア・シェムリアップという地に世界遺産がある。広大な土地にそびえ立つアンコール・ワット、無数の仏の顔が刻まれたアンコール・トム、その周辺に点在する数々の遺跡、これらはアンコール遺跡と呼ばれている。その美しさ、力強さを実際に肌で感じてみたい・・・、そんな思いが私をアンコールの地へと駆り立てた。
これぞ世界遺産

2002年2月、シェムリアップ空港に降り立つと、なま暖かい空気が私を包み込んだ。日中の平均温度は35度です、と教えてくれたのは現地ガイドのイー・オルさん。日本語学校で2年間勉強したという弱冠22歳のその青年が、流暢な日本語でアンコール遺跡を案内してくれた。(私は、遺跡を見るときは必ず現地ガイドに案内してもらうことを選ぶ。歴史や文化など細かい事柄は、専門家が一番よく知っているからだ)。
最初に訪れたのはアンコール・トム。アンコール・トムとは大きな町という意味で、12世紀末ジャヤヴァルマン7世によって建設された。このジャヤヴァルマン7世は、当時絶大な権力を誇っており、たくさんの宗教施設を建設している。まず出迎えてくれたのは、ナーガと呼ばれる7つの頭を持つ蛇。守り神であるナーガに見守られながら門を入り、更に乾いた土の道を進むと、巨大な石の建物が顔を見せる。よーく見ると、そこには、無数の顔、顔、顔・・・。アンコール・トムの中央にある仏教寺院バイヨンは、四面仏が刻まれていることで有名だ。どの位置から見ても、穏やかな表情の観世音菩薩を拝むことが出来る。
このバイヨンは、メール山(須弥山)を象徴していると言われている。メール山とは、神々が住み場所であり、バイヨンは正にクメール人の宇宙観を表している。見事なのは四面仏だけではない。壁に刻まれた端から端まで続くレリーフには、当時の暮らし、そして戦争の様子などが描かれており、絵本のような楽しさである。クメール人、中国人、チャンパ人など、登場人物達は微妙に違う顔つきや髪型で区別されている。これを刻んだ人達は、一体どれだけの労力を費やしたのだろう? 気が遠くなる思いで見つめる。

一度ホテルへ戻り、2時間ほど休憩してからアンコール・ワットへ向かう。どんどん水分を摂ってもほとんど尿意を催さない。体から水分が失われていくこの暑さの中では、この休憩が大きな意味を持つ。日傘を差しても、帽子をかぶっても、足元の石畳からの強烈な照り返しには、なす術もない。せめてものお慰めに、扇子をパタパタ扇いでみる。
「アンコール・ワットは西に向かって建っているため午前中は日光の反射で良い写真が撮れません。ですから、午後に来たほうが良いんです」と、イーさん。さすがにこの気温には慣れているのか、暑そうな顔1つ見せない。なるほど、お蔭様で良い写真が撮れそうだ、と最高の被写体にレンズを向ける。アンコール・ワットはとにかく絵になる。今まで訪れた遺跡の中でも、一番ではないかと思うほどフォトジェニックだ。
さて、アンコール・ワットがヒンドゥー教寺院として建てられたということを知っている人は意外と少ないのではないだろうか? かく言う私も、仏教寺院だと思っていた勘違い者の1人だ。12世紀前半に建設されたアンコール・ワットは、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神のための寺院であり、また、スールヤヴァルマン2世の墓でもあった。アンコール・トムと同じく、中央祠堂はメール山(須弥山)を象徴し、そこにはヴィシュヌ神が降臨すると考えられていた。王はそこで神と交信し、一体化するのだ。
正面の門から中へ入ると、迷路のように長い回廊が続き、レリーフが膨大な物語を綴っている。ヴィシュヌ神率いる神々の軍と悪魔軍との戦い、ラーマヤーナ物語、天国と地獄の図など、全てを細かく見ていくと気が遠くなるほどだ。昔の人というのは、秀でた芸術性とともに、現代人とは比べものにならないほどの忍耐力を持ち合わせていたのだろうと思う。

 
その他の遺跡群

周辺には、他にもたくさんの遺跡があり、特に私の興味をひいたのはプレループとニャックポアン。身体を変えるという意味のプレループは、961年に建てられたヒンドゥー教寺院。ここには火葬に使った石槽があり、イーさんが興味深いことを教えてくれた。その当時、死体を西向きに寝かせ、火葬後はその灰で人間の形を作り、今度は東向きにしていた。これは、輪廻転生を信じていたためだという。東から上り西へ沈む、太陽と人間の生死を重ねているのだろうか? イーさんに聞いてみたが、太陽信仰はなかったようだ。
ニャックポアンは、12世紀末、アンコール・トムと同じジャヤヴァルマン7世によって建てられた。絡み合う蛇という意味があり、療養所だったところで、中央塔の周りに4つの池がある。それぞれの池には、ライオン、象、馬、観音様の石像があり、そこから水が出てくるしくみになっている。人々は病気によってどの池に入るか決められたというが、全ての水は中央塔から流れているので、どの池に入っても同じ水なのでは?と考えてしまう。当時の人々は、水が石像を通ることによって効果が変わると信じていたようだ。

 
たくましい人々

こちらの気候にも慣れてきたある日、水上生活者が多く住んでいるトンレサップ湖へ向かった。車の中では、イーさんがカンボジアの歌を披露してくれている。「煙がない日」というタイトルの古い歌。煙というのは恋の炎のことだと聞き、恋の話は万国共通だなぁと思いながら窓の外を眺める。乾季のため砂ぼこりが舞う道の両側には高床式の家が並ぶ。「国民の9割は農業で、平均月給は40ドルくらいです」とイーさん。「5歳のときに父を亡くし、母と兄と姉が働いて私を学校に行かせてくれました。この国は義務教育制度ではないので、学校に行けない子供たちがたくさんいます」。大学へ行く夢は叶わなかったけれど、一生懸命日本語を勉強して仕事を得たイーさん。これから親孝行します、と言った時の笑顔がとても輝いていた。
  湖に近づいてくると、まっすぐ座っているのが難しいほど車の横揺れがひどくなってくる。道の両脇に並ぶのは、4畳〜6畳ほどの小さな1部屋だけの家。果たして家と呼べるのだろうか? 長い4〜6本ほどの柱の上に、1部屋だけ作られていて、風が強く吹いたら飛んでしまいそうな華奢な造り。しかし、実際にそこに人々は住んでいた。食べるのも寝るのもその1つしかない部屋。
そして、ひどく臭い匂いがするその湖の上には、たくさんの家々が並ぶ。最初はあまりの匂いに息をするのが苦しかったくらいだが、不思議とすぐに慣れてしまった。ボートに乗って湖を遊覧する。ある水上マーケットに寄ってみると、幼い少女が「オネエサン、コレカワイイ、コレヤスイ」と片言の日本語で営業を始める。発展途上国を多く旅してきた私だが、こういう少年少女たちに会うと、生きて行く上でのその逞しさにいつも感心する。彼ら達は、テレビゲームなんかなくても、パソコンや携帯がなくても、よっぽど充実した日々を送っているのかもしれない。

カンボジアでは、長期間に渡って戦争が続き、今でも国境付近には何万個という地雷が埋まっている。犠牲になるのはいつも、貧しい人々や女性や子供たち。最近は、地雷撤去へのチャリティー活動もだいぶ知られるようになってきた。出掛ける前に友人たちから、地雷に気をつけてねと声をかけられたが、観光地には地雷がない。カンボジアは危険だと思わずに、もっとたくさんの人に訪れてもらいたい。そうすることによって、カンボジアの経済が少しでも潤ってくれたら、と思う。
早く地雷がなくなって、カンボジアの人々が安心して生活できますように。もっとたくさんの子供達が学校に行けますように・・・。

 
 
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